関心にど真ん中なトピックすぎて、とても楽しみにしていたお話会を聴いてきました。

虔十の会代表の坂田昌子さんは、かつて高尾山にトンネルが通される計画が持ち上がったとき、高尾山がどれだけ生物多様性の宝庫か、トンネルによって生態系にどれだけのダメージがあるかを、現地を実際に歩きながら教えてくださった人。以来ずっと生き物の立場に立った取り組みをされていて、その端々を知るたびに、すごいな、パワフルだ―と感じてきました。

近年坂田さんは、コモンフォレストという、森をみんなで使うことで他の生物と共存していくこと(経済林として利用するとか里山林として維持するとかでなく、人も生態系の一員として、生態系の他のメンバーを尊重しながらつきあう作法を学びながら森に入らせてもらう)に取り組んでおられるようです。

そうした中、かつての日本列島で、奥山を自由に移動しながら木を伐って生活道具をつくっていた木地師の伝統に光を当ててくださったようでした。

■里びと中心の歴史の中ではあまり語られてこなかった、山の民

かつての木地師は山の中に簡易な小屋を建てて住みながらそこで作業をしましたが、一か所に定住することはなく、山から山へ(もしくは山の中で)用材のある場所を移動しながら暮らしました。明治になるまでは日本列島の山々を自由に行き来できる権利を持っていました。

こうした木地師の暮らしについては、かつて自分も多少調べたり文献を読んだり、故・姫田忠義監督のドキュメンタリー「奥会津の木地師」を見たり、京都・美山の天然林「芦生研究林」を歩いたときに木地師の集落跡に出くわしてびっくりしたり、竹中大工道具館での木地師特別展を見に行ったりしたのですが、今回のお話ではさらに今まで知らなかったことを教わりました。

そのひとつが、木地師の仕事として現存する一番古いものは、掛軸の軸木だということ。そして初期の木地師が手掛けていたのは、経典を収める入れ物「塔婆」(100万個つくったため「百万塔」とも呼ばれる)だったこと。椀や杓子といった生活道具をつくるようになる以前、木地師の納品先は法隆寺をはじめとするお寺だった時代があった、ということのようです。

百万塔はWikipediaによると「木製三重小塔。塔身と相輪の2つから構成されており、塔身内部に陀羅尼を納める構造となっている。標準的なものは、総高21.2cm、基底部径10.6cm、塔身のみの高さ13.2cmである。塔身はヒノキ、相輪は、細かな細工がしやすいサクラ、サカキ、センダン等の広葉樹が用いられる」。

百万塔・百万塔陀羅尼-One of the “One Million Pagodas” (Hyakumanto) and Invocation MET 30 47a-c 203140

Metropolitan Museum of Art所蔵の百万塔の1つ(764–70年頃のもの)

塔身内部には紙を入れられる空洞が穿たれているわけで、奈良時代にこんな込み入った構造をほぼ同サイズで百万個つくったとは、すごい。縦挽きに見えるし、そういう意味でもすごいな。。

その後、お寺からの需要がなくなって、次第に日用品をつくることにシフトしたらしいのだけど、木を扱ってものづくりをするほかの集団(家具づくり、家づくり、竹細工での日用品づくり)のように、里で仕事をするってことがなく、里の人との関わりは最低限なまま、仕事場・居住の場はやっぱり奥山だったようです(少なくとも明治時代が始まるまではそうしたライフスタイルがなんとか維持できていたもよう)。

里びと中心の歴史観の中からはこぼれ落ちがちな存在だったがゆえに、山や民俗学に関心のある方以外にとっては、「木地師」はなじみの浅い言葉になったようです。

■奥山での暮らし

木地師が立てる家は、すぐ壊して次の場所へ移動できるような構造のシンプルな家。奥山の川の近くにそうした家を建てて、木を伐り、生木の状態で屋外で手斧などではつって木取り。今度は小屋の中で、足踏みろくろに据え、ろくろの紐を家族にひっぱってもらうことで回しながら、刃物で挽く。

私も最初にグリーンウッドワークに魅せられたのは、森の只中で、木を伐ったその場で割って削って作業していく、そのあいだタープを木の枝にひっかけて張った簡単なテントで寝泊まりして、焚火で料理する、そういう日々の過ごし方ができたことが大きかったのですが、これはちょっと、かつての木地師の暮らしに似ていたのかもしれないです。

テントの中

今、Silvaさんで森林再生を実践的に学ばせていただいてますが、Silvaの活動は今のところ都市近郊で乱開発された地などを森に戻すことがメインになっています。Silva代表の川下都志子さんの悲願は、拡大造林でおかしなことになってしまった山で、もとの原生林に近い森を再生すること。ただ、人の利用を前提としない森づくりは、なかなか地域の方々の理解を得るのが難しいと聞きました。

今の日本列島には原生林(人の手が一切入っていない森)は0.04%しかないと言われますが、原生林とはほんとうに誰一人ひとが入ってこなかった、利用してこなかった森なのかな?ということを、坂田さんのお話を聞きつつ思いました。

里びとが入らないような奥山に、木地師やマタギの人達は入ってきた、ということに着目すると、何か道が開けるかな?と……。

■保護区で守った場所と、先住民の方々がお世話している場所

坂田さんのお話で一番印象に残ったのは、保護区として”守った”場所と、先住民の方々が利用しながら森と共存してきた場所では、後者のほうが生物多様性が豊か、という研究結果が出ていること(生物多様性条約締約国会議で発表されたそうです)。

先住民の方々は、他の生物と同じように生態系の一員として生きている、ということを示す結果かと思います※。他の生き物も人間を利用しているし、人間も他の生き物を利用させてもらっている、そういう関係。

奥山で暮らした木地師たちも、先住民の方々に近いありようで、森を移動しつつ暮らしていたことが想像されます。木を利用させてもらいつつ、その場の生態系を豊かに保つことに貢献していたとしたら、すばらしいな、と思いました。

※後日追記:「生物多様性」の捉え方について、Silva代表の川下さんのお話から教えていただいたことがあったので、追記しておきます。生物多様性については単純な「生物の種類の多さ」ではなく、そうした多様性がその場に存続し続けるかどうかを見る視点が大切なのだと知りました。

多種多様な動植物で構成される土地本来の森(原生林に近い森)は、半永久的にそうした多様な生物が世代交代しながら存続できるフィールドです。生物共同体はこうした場を望むため、こうした場ではなくなった場所=ダメージを受けた場所は、元に戻そうとして植物も虫も鳥も土壌動物も協力・連携します。つまり一時的に動植物の干渉が激しくなる。こうした一時的な「多様性の増加」は、厳密にはそのフィールドの健やかさの指標になるわけではないのですね……。上記の研究結果についても、多様性の数値だけでなく、その多様性が持続可能なのかどうかを、見る必要があると思いました。

■「手前に回っては向こうへ戻る」手引きろくろ・足踏みろくろ

手引きろくろは自分は体験したことがまだないのですけど、今、家の中に足踏みろくろはあって(先生や仲間のみなさまの有難いお力添えのおかげさまなのですが)、練習を少しずつしていますが、これで器を挽くとき実感するのは、静かさとリズムです。

マイクさんの森の工房の足踏みろくろ

一方向に高速で回り続ける機械旋盤とは、やっぱり世界が違うかと……。ひと踏みごとに、手前に回ってきては向こうへ戻る足踏みろくろは、有機的リズムの中でずっと挽いていられる感じがあります。

呼吸も、空気が世界から私の中に入っては、また世界に戻っていく。波も、寄せては帰る。この行ったり来たりのリズムには、どこか悠久感があるのかもしれないです。

かつての木地師の人たちのように(?)、自分も生態系の一員としてここにいる、という意識を、足踏みろくろを通して育んでいけたならいいなと思いました。

■シンクロに背中押された……

木地師についてのお話会と同じタイミングで、足踏みろくろ仲間の中津川グリーンウッドワークベースの原さんから、小さめの器挽きをするためのマンドリル(足踏みろくろで使う道具)が届きました!

この道具自体も、原さんちの足踏みろくろで挽いてくださったもの。なんでも小さく作りたい自分向けに、実験的に小さくつくってくださいました。ありがとうございます!!!

このところろくろ挽き練習はすっかりお休みしてましたが、これを機に、また再開したいです。

(余談ですが、自分としてはろくろもお外でやるのが本筋だと思い込んでいたけれど、木地師の方々もろくろは屋内だったようで、それもなんか嬉しかったです。)